「無駄なリソース」ではない|障がい児バッシングの前に、JALの話をしよう

福祉・支援

ここ最近、SNS上で気になっている流れがあります。教員不足や保育士不足が語られるとき、その矛先が、いつの間にか障がいのある子どもたちに向けられていることです。
「特別支援学校に行ってくれ」
「健康な子のための貴重な教員リソースを浪費するな」
そんな言葉を、以前より頻繁に見かけるようになりました。
行き着く先には、「障がいのある子は安楽死という選択肢もあっていい」という言葉さえあります。

今回は、この流れについて、なるべく感情論を抜きにして、事実だけを並べて考えてみようと思います。

「無駄なリソース」論の正体

障がいのある子に関係なくリソース不足である

まず、前提から確認します。教員や保育士が足りていないこと自体は、事実です。ただ、これは障がいのある子どもが増えたから起きていることではありません。

文部科学省の調査によると、公立学校で必要な教員数に対して実際に配置できていない
「未配置」の状態は、2021年5月時点で全国2,065人でしたが、2025年5月時点では3,827人にまで増えています。

未配置教員数(20212025年5月)3,827人の内訳

未配置教員数内訳

小学校979人→1,699人
中学校722人→1,031人
高等学校159人→508人
特別支援学校205人→589人

このように、どの校種でも軒並み増加しています。

特に増加率で見ると、

高等学校は約3.2倍
特別支援学校は約2.9倍

実は高等学校の方が悪化のペースが速いくらいです。
つまり、特別支援学校だけが特別に深刻なのではありません。

小学校から高校まで、教員不足はすでに校種を問わない、全国一律の危機になっています。

これは、障がいのある子どもの数が急に増えたから起きていることではなく、学校の種類を問わず、教員のなり手そのものが不足しているために起きている現象です。
健康な子が通う一般の公立学校でも、すでに同じように、あるいはそれ以上に人手が足りていません。

「健康な子のための貴重なリソースを、障がいのある子が奪っている」のではありません。
リソースそのものが、学校の種類を問わず、そもそも用意されていないのです。

原因と結果を、すり替えてはいけないところだと思います。

足りないのは、人ではなく「待遇」

保育士の処遇改善が必要な点

では、なぜ教員や保育士のなり手が不足しているのか。ここにも、感情論ではなく数字があります。

保育士の有効求人倍率は、全職種平均が1.27倍であるのに対し、保育士は3.88倍といわれています。
求人を出しても、人が集まらない状態が全国的に続いているということです。

背景にあるのは、待遇の問題です。
職務の内容の重要さ、国家資格であるという専門性に、賃金が見合っていないのです。
2026年1月時点で、保育士の給与水準は全産業平均を下回っている、と複数の調査で指摘されています。

教員の処遇改善が必要な点

教員については、さらにわかりやすい構造があります。
文部科学省の調査では、中学校教員の36.6%、小学校教員の14.2%が、過労死ラインとされる月80時間相当の残業をしています。
それにもかかわらず、公立学校の教員には、残業した分だけ支払われる残業代という考え方がありません。

「給特法」という法律によって、実際の残業時間にかかわらず、給与に一律4%の「教職調整額」が上乗せされるだけ、という仕組みが1971年からずっと続いてきました。
しかもこの4%という数字自体、1966年当時の「週1時間48分程度の残業」という前提で計算されたもので、実態とは何十年も乖離したまま放置されてきました。
2025年にようやく法改正が成立し、2026年1月から段階的に、2031年には10%まで引き上げられる予定です。
裏を返せば、それだけ長い間、働いた分が正当に給与へ反映されない仕組みが、教育現場で放置されてきたということでもあります。

教員も保育士も、命や育ちに関わる、専門性の高い仕事です。

それに見合うだけの待遇を用意してこなかったのは、現場で働く人たちの責任でも、まして障がいのある子どもたちの責任でもありません。
何十年もかけて、この処遇を改善してこなかった、政治の側の問題です。

その支援は「施し」じゃない

誰もが福祉を必要とする可能性がある

今の社会には、障がいのある人への支援にかかる公費を、まるで「施し」であるかのように捉える空気があります。
でも、少し立ち止まって考えてほしいのです。
自分自身が将来、支援を必要とする側になったとき、何が返ってくるでしょうか。

老いれば、誰でも身体は思うように動かなくなります。
病気や事故は、誰にでも起こり得ます。
「今は必要ないから、いらない」というのは、「一生必要ない」ことの証明にはなりません。
福祉とは、今すぐ使うかどうかにかかわらず、社会全体でかけている保険のようなものだと思います。

JALは救われて、障がい児はいらない、なら

公費の使い道

わかりやすい例をひとつ挙げます。
2010年に経営破綻した日本航空(JAL)の再建には、企業再生支援機構を通じて3,500億円の公的資金が投入されました。
飛行機に一度も乗らない人の税金も、そこには含まれています。
それでも、この支援に強く反対する声は、当時それほど大きくはありませんでした。
航空網が止まれば、物流も、出張も、観光も、社会全体が回らなくなる。そう判断されたからです。

福祉も、同じ構造を持っています。
医療的ケア児やその家族を支える施設があるからこそ、安心して働ける親がいます。
その施設で働く人たちの雇用があります。
医療機器や栄養剤、薬をつくる企業のビジネスもあります。
目に見えにくいだけで、これも立派に社会を回している仕組みです。

「JALはつぶれてもいい、障がいのある子は安楽死させればいい」
もし本当にそう考えるなら、それは筋が通った一つの立場かもしれません。
でも、多くの人はそこまでは思わないはずです。
だとしたら、なぜ一方は「社会を回すための必要なコスト」で、もう一方は「無駄な施し」だと切り捨ててしまうのでしょうか。

「大変」と言うことすら、許されない

子育ては大変

子育てが大変だ、と口にすると、「だったら産むな」と返されてしまう。
そういう空気は、障がいのある子を育てる家庭に限った話ではありません。
子育てを論ずる場で、すでに存在しています。

障がいのある子の親への風当たりは、その延長線上で、さらに強くなったもののように感じます。
残念なことに、その声には、健康な子を育てる親も一部加わっています。
冒頭で触れた「限られた教員リソースを浪費するな」という理屈が、そのまま動機になっているケースも少なくないはずです。

本当の問題は、線引きをする社会そのもの

一番弱いところに責任はない

ここまでの話をまとめると、これは「障がいのある子どもと、健康な子どもの、限られたリソースの奪い合い」ではありません。
教員や保育士の待遇改善を、何十年も政治が後回しにしてきた結果です。
その責任の所在を、一番弱い立場にいる子どもたちに押しつけてしまっているだけです。

社会を良くするために出来ること

行き過ぎた自己責任論は、本来向くべき方向を見誤らせます。
国や政治の不作為ではなく、個人の存在そのものに責任を負わせようとする。
この社会がそうした線引きを続けている限り、社会全体がよくなることはないと思います。
なぜなら、その線引きの向こう側に、いつか自分自身が立つ可能性を、誰も否定できないからです。

今すべきは、懸命に生きる弱者から生きる権利を奪うことではありません。
『これはリソースの奪い合いだ』と声高に叫ぶのではなく、誰もが生きていて困らない社会を作ることです。
福祉につながりやすい社会へと、変えていくための道を進むべきです。

※この記事は、公開されている統計・報道をもとに、筆者の考えをまとめたものです。

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