
「一度不承諾になったけど、もう一度申し込むべきか迷っている」

「保育園に入れさえすれば、あとは楽になるはず」
そんな思いを抱えていませんか。
医療的ケア児の保育所利用は、正直に言って難しいです。
受け入れてくれる園も、枠も、とても少ないからです。
それでも、今は共働きが主流の時代です。
物価高もあり、医ケア児のいる家庭でも働きたいと考えるのは当然だと思います。
2025年の年金制度改正では、パートなどで働く人の社会保険の対象が広がりました。
扶養に入っている配偶者(第3号被保険者)の制度も、縮小に向けた検討が続いています。
「扶養の範囲で働く」という前提そのものが、少しずつ変わり始めているのです。
働くためには、保育所が欠かせません。
「難しい」で諦めるわけにはいきません。
前回の記事では、医療的ケア児の保活がいかに大変か、そして不承諾になった経緯を書きました。
今回はその続きです。2回目の申請、内定、そして実際の通園生活まで、包み隠さず書きます。
この記事を読めば、「内定はゴールではなく、もう一つの入口にすぎない」という現実がわかります。そのうえで、今保活に挑んでいる方の心の準備に、少しでも役立てば嬉しいです。
また保育利用申請の時期がやってきた
不承諾で心が荒んだ記憶
昨年度保育園の利用申し込みをし、不承諾が出たことで結構な精神的ダメージを受けました。
「医療的ケア児支援法が出来たし、希望したら利用できるのかな」
などと思っていたからです。
医療的ケアはともかく、息子の強みもありました。
日ごろ児童発達支援施設を利用し、母子の分離も集団生活も経験済です。
今まで親と離れた生活をしたことが無い子よりは、保育時間中泣きはらしたりはしないことが想像できます。
「うちの息子は保育園通える」
そんな気持ちで前年度は保育施設利用申請をしました。
しかし、結果は不承諾。「厳しいってことはわかってた」そう自分に言い聞かせても、当時心はかなり荒みました。
それでも、『起き上がらなくていいのか?』心の底には問いかけて来る自分がいました。

未練たらたらな日々
そのため、今年度はどうしよう。書類も申請も、面談も。
あんな大変な思いをして、結果が伴わずまた不承諾は嫌だ。そう思いました。
どっちつかずの気持ちのまま調べてみても、やはりどこの園なら医療的ケア児の枠が空いているか。という情報はありません。基本的には闇雲に応募するしかないです。
またやるかどうか、日々悶々としました。
諦めたらそこで保活終了です
医療的ケアへの認識をカジュアルに
当時息子は酸素療法中で、日中の栄養摂取は胃ろうに頼っていました。しかし、これはどちらも扱いを間違えると救急車を呼ぶ。みたいなケアではありません。
見た目重病人感があり誤解されがちですが、カニューレから入れている酸素は流量が少なめです。
軽視するつもりはありません。ですが、カニューレ外れたら「うぅ・・・苦しい」みたいなものでは無いということです。
手術後の大きな人工呼吸器からのバイパップ、ネーザルハイフロー、カニューレと必要に応じてどんどんデバイスが変わる様子を見ていた親からすると
『うちの子カニューレまでこれたし☆』
という気持ちです。
仕方ないけど、身近ではないからわかりづらい。
医療的ケアは怖いものでは無いと知ってもらう必要があると考えました。

やっぱり働きたい
まず当然のように、働かなくては収入が得られません。就労機会を確保するためには、保育園に子どもを通わせなければならない。ここは一般的に理解してもらえると思います。
さらに言うなら、産休を取られた方ならわかるかと思いますが、ブランクがどんどん開いていく日々は不安です。こうしている間に、世の中はどんどん変わっていきます。
物言わぬ息子と暮らしている間に、社会と連動しない自分を感じていました。
浦島太郎感はヤバかった
付き添い入院や、息子の手術。安定してからは、医療的ケアや通院、息子のリハビリと訪問看護、予定に押し流されるように過ごしていました。
自分のことの優先順位が下がったため、美容院に行く余裕はなくなり、髪はセルフカットです。
そして、今までだったら当たり前に知っていそうな情報にすら疎くなっていました。
例えば、「イエベって何!?」「クッションファンデって何??」という具合に。
自分が日々感じる社会性の減退。これを自覚するほど、わが子の社会性を養う機会の価値を考えました。たとえ状況が変わらなくても、諦めて何もしないままではいたくない。
そんな気持ちが大きかったように思います。

集団生活の経験により育まれること
以前は普通に会社で働いていた私ですら、ここ数年の隔離に近い生活で変わってしまいました。
例えば児童館などで、同年代と思われるおかあさんが話しかけてくれる時があります。しかし、緊張から挙動不審になってしまうんです。
これ、息子はもっとだと思います。赤ちゃんの時から入院ばかり。
周りは医師や看護師、大人に囲まれ生きています。
同年代のこども達に囲まれ、自然体でコミュニケーションが取れるって幸せなことです。
当たり前だから気づかないだけです。わが子にはそれが無い。
人生始まったばかりの息子の未来を考えると「お友だちを作る力」を身につけさせたかった。
それに、申請しなければ、医療的ケア児の家庭が保育を必要としているという事実そのものが、どこにも残りません。結果がどうであれ、まずは声を上げ続けることに意味がある。そう考えて、再び申請書を出しました。
2回目の申請、そして内定へ
2回目で活きた経験と知識
今回の申請では、医療的ケア児枠のある園のうち、2番目に近い園を選びました。
2番目に『近い』と言ってもアクセスが悪く、電車では1時間かかります。自転車だと40分です。
しかし、ギリギリ通える園はここしかありませんでした。
一番近い園を除外した理由は、前年度に応募し、産休から明けられる方のお子さんが入園した、と知っていたからです。これは、昨年自分が保活をしたからこそ持っている、価値ある知識でした。
この自治体では、医療的ケア児枠は各園にひとりです。
まだ2歳児クラス辺りと推測できました。今年度では、この園の医療的ケア児枠が空いているとは考えづらかったということです。

医師や看護師さんとの面談
嘱託医の先生との面談では、息子の酸素流量が1Lであり、すでに必要の度合いが低い点(なんならそろそろやめれるかもと話している)を説明しました。
また、栄養の注入後も血糖値の低下は見られず、安定して運用が出来ていることを伝えました。
前年度とは違い、先天性心疾患の根治手術を終えていたこと、これも大きかったと思います。
園の看護師さんと、胃ろうへの注入について細かくやり取りをしました。
実際に息子は体力がないため、不調時のサインは明確です。横になって過ごす様子が増えたらお迎えが必要です。そう伝えました。
そして、ついに「ほぼ内定」の連絡をもらうことができました。ここまで、実に長い道のりでした。
内定してからも、実は先が長かった
受け入れ手続きの煩雑さ
ここで、多くの方に伝えたいことがあります。「内定」は、通園開始とイコールではないということです。
私の自治体では、内定のあとにこんな手順が待っていました。
- 申請
- 園での嘱託医を含む面談
- 自治体の会議(主治医も参加)
- 園での面談(2回目)
- 受け入れ決定
- 主治医の指示書
- 指示書がそろってからの、あらためての申請
- 慣らし保育の開始
- 主治医の指示書をもとに、病院の看護師さんが手順書を作成
- その手順書に、主治医のサインをもらう(本人も一緒に受診)
- 園から自治体への申請
- 嘱託医による、園看護師の手技確認
- 園看護師による、医療的ケアの実施許可
- ようやく、通常保育の開始
内定の連絡から、実に14ステップです。慣らし保育は1か月では終わらず、私が付き添う「母子通園」の期間だけでも、2か月以上続きました。
この間に不安だったのは、自分の仕事探しでした。最初は、なるべくしっかり働いて収入を得たいと考えていました。でも、就職活動の猶予は、慣らし期間にかかわらず6月末まで。
付き添いしている間にその大半を消費してしまうという建付けってどうなの?と思わずにはいられなかったです。
そこで途中からは、「保育園に通える最低限の就労時間さえクリアできればいい」と、目標を下げることにしました。
医療的ケア児の保育園通園は「働くための保育園」という前提そのものが、簡単には成立しませんでした。
「働くため」のはずが、体調管理に追われる日々

就労するほど通えない
通い始めてからも、平穏な毎日ではありませんでした。
まず、最初から週5日の通園は無理でした。せいぜい週3日が最大です。
息子は年齢的には年長さんですが、スペック的に2~3歳と判断されました。
最初は雰囲気に慣れるためにも、3歳クラスに2カ月通いました。体格的にも違和感は無く、むしろ言葉や身体能力的には彼らより下にすら見えました。
ゴールデンウィーク明けの久しぶりの登園では、慣らし保育がリセットされ泣いていました。児童発達支援で母子分離できた経験は、ここでは活きなかったです。(当時は息子の発達障害に気づいていなかったことも原因だったと思っています)
そんな時期が過ぎ、年長クラスに移りました。
とにかく体調を崩す日々
通い始めてすぐ咳が出て休み、週末を含めお休み。熱を出しては救急を受診したこともあります。
病気をもらってばかりいて、0歳児産休明けのお母さんといった体でした。
障がいや医療的ケアのある子が通う児童発達支援施設は、わずかな体調不良に敏感です。
理由は息子と同様、基礎体力が少ない子供ばかりだからです。利用者全員が非常に感染しやすいです。
それに、軽い症状から一気に悪くなります。
保育園の子たちは、少しの鼻水や咳なら元気に登園してきます。
それは悪いことではなく、それだけ体力があるということです。
当たり前だけれど気づけませんでした。健康に不安が無い子供達は、根本的に体力が違うということなのでしょう。
それでも、集団生活が息子にくれたもの
「お友だち」と認知されているわが子
ここまで大変なことばかり書きましたが、良かったこともきちんと書いておきます。
保育のスケジュールでは、息子は15時前後に退園していました。年長さんのお友だちは、小学生になる準備のためお昼寝をせず自由に遊んでいます。
彼らは帰る準備をしている姿を見て
「もう帰っちゃうの?」「今日『ママッ!』って言ってたよ」と、報告を兼ねて声をかけてくれます。
そこには、息子への興味が存在していて、私にはとてもうれしかったです。

本当に貴重な、価値ある時間
こども達はとても素直で、忖度無く息子と接してくれました。息子は気に入ったものを独占したがるのですが、「みんなのおもちゃだよ、独り占めはダメだよ」と、注意してくれる。それでも息子は1・2回持って逃げてしまうのですが、思い直してお友達に返す。そんな姿を見ることができました。
私には出来ない『教育的指導』です。この時間の価値というのは計り知れないと感じていました。
保育園の利用申請した意味は、こういうささやかな瞬間に、確かに感じられました。
彼らは大人になった時、息子の名前や顔は覚えていないかもしれない。でも、『体が弱くても保育園に来ていたお友だち』その存在が記憶に残ると思っています。
彼らのその経験が、障がいの有無に関わらず、共に暮らせる社会の礎になることを願います。
手術後、また「前例がない」に戻された
予定に無かった手術
夏から付き添いを必要としなくなって、通園が落ち着いてきた頃、大きな出来事がありました。
秋の運動会の後のことです。息子は心臓の不整脈が増え、心不全を起こしました。
検査をして、弁の形成と、ペースメーカー(危ない不整脈のときに電気ショックを出す機能つき)を体に入れる手術を受けることになりました。
手術をはさむため、3ヶ月という長期の入院になりました。

退院後の保育利用再開
退院の後1カ月ゆっくりとお休みをしました。そして、保育園の看護師さんと一緒に、息子の通院に付き添ってもらうことになりました。
理由は、私が息子の保育再利用を希望したからです。医師の見解を確認するためでした。
「幸い心臓の状態は安定している。来月から利用再開しても大丈夫だろう」そう診断してもらえました。
しかし
「ペースメーカーのある子を保育した前例がない」
そう役所から連絡がありました。
まるで「医師の判断など関係ない」と言える回答でした。

前例がないことが出来なかったら、医療的ケアの受け入れなんかそもそも出来ないだろう?
いままで受け入れてなかったんだから。
そう言いたい気持ちを飲み込むには、歯を食いしばる必要がありました。
どのみち私は週3日の保育園の通園時は、自治体のハローワークのオンデマンド資格取得研修に充てていました。結局、10時から15時までの週3日の保育利用で可能なことはその程度でした。
そんなささやかな保育の利用すら再開させてもらえない。
役所からは、なかなか連絡がありませんでした。問い合わせの電話をすると「このまま卒園まで付き添い通園になるかもしれない」という話でした。
この一件は
医療的ケア児の保育園通園が、一度落ち着いても、何かのきっかけでいつでも振り出しに戻り得ることを、私に教えてくれました。
通園は、私のエゴだったのか

何度も自分に問いかけたこと
この記事を書きながら、何度も手が止まりました。
保育園に通えて良かった。
そう思っているのは、結果が出た私だけではないか。
息子は本当に楽しかったのか。
体の負担が増えただけではなかったか。
周りの子や先生たちにとっては、息子がいない方が楽だったのではないか。
正直に言うと、今も完全には答えが出ていません。
記録に残っていた、息子の変化
それでも、当時の記録を読み返すと、見えてくるものがありました。
・私にくっついてばかりだった息子が、自分で絵本コーナーへ行くようになった
・年長のお友だちの言葉をまねて、家で覚えてきた言葉を言うようになった「〇〇忘れてるよ~」 とか。
・見学すらできず逃走していた運動会で、全部の種目の場にいて、バトンを握った
・帰ってくると、何かを成し遂げたような顔で、王様のようにくつろいでいた
もちろん、「行きたくない」とアピールする日もありました。
熱も何度も出しました。
どちらも本当です。そこには私と一緒ではない『息子の社会』が存在しました。
「通える」と判断したのは、私ひとりではない

体への負担は、私だけではなく主治医を含めた多くの医療関係者の判断が入っています。
主治医、園の嘱託医、看護師さん、そして自治体の会議。
14のステップの中で、何人もの専門家が「通える」と判断しています。
これがあったからこそ、(途中で入院はしたものの)安全に通える体制が整ったからです。
今あるこういった過剰ともいえる手続きは、現段階では必要だというのが私の考えです。
なぜなら、例えば息子の例のように体調を壊した時、親の心を守ります。
親は常に、惑い、迷い、悩んでいます。
『果たしてこの判断は正しかったのだろうか?』と。
専門的な資格の方々による、【保育利用可と判断した】この他者のお墨付きというのは、自分だけで判断していない。というささやかな救いになる。おそらく通園手続きのステップにとっては意図していないことでしょうけれども。
もちろん今後医療的ケアを受け入れる側の経験が育ち、余裕が生まれたら簡略化されていく方が良いです。
子どもたちの行動が、答えてくれていた
お友だちは、頼まれてもいないのに息子をお友達と認識してくれました。
運動会でゴールした息子を、喜んでねぎらってくれました。
自分の親に「息子くんだよ。生まれてからずっと病気なんだよ」と紹介してくれました。
迷惑な相手に、子どもはこういうことをしないと思うんです。
先生方の本音は、私にはわかりません。
大変なことも、きっとたくさんあったはずです。
だからこそ、心から感謝しています。

問題は「息子が通ったこと」ではない
この記事で書いた大変さは、ほとんどが制度のしくみから来ています。
14ステップの手続き。付き添い中に消えていく就活の猶予。「前例がない」で止まる再開。
どれも、医療的ケア児が保育園に通うこと自体の問題ではありません。
通うための道が、まだ整っていないという問題です。
しかし、これらはそのまま改善の余地ということでもある。
それが、この記事で一番伝えたいことです。
まとめ
望めば使える、にはまだ遠い
ここまで、2回目の保活から、内定、通園、そして手術後の顛末まで書いてきました。
医療的ケア児の保育園利用は、私の就労につながる時間を、十分には生み出してくれませんでした。
でもそれは、息子が通ったことが無意味だったという意味ではありません。
まだ新しく始まったものであり、体制として整うまで必要な経験値を積み上げる必要がある。
そういうことなのでしょう。
親の就労としては、制度の建付けに阻まれた。
子どもの育ちとしては、確かな意味があった。
この二つは、分けて考える必要があると思っています。
慣らし保育の長さ、繰り返す体調不良、そして医療状態が変わるたびに立ちはだかる「前例がない」という壁。そのひとつひとつが、就労への道筋として確保したはずの時間を、削っていきました。結果、母子通園のまま保育園を卒園し、そのまま小学校へ進学しています。
卒園そのものについては、当時あまり記録を残せていませんでした。
それだけ、日々のことに追われていたのだと思います。
医療的ケア児の保育園制度は、この数年で少しずつ前に進んでいます。それでも、枠も少なく人手が足りない。
「望めば誰でも利用できる」というところまでは、まだ遠いというのが実感です。
医ケア児保活真っただ中の方へ
内定は、ゴールではなくスタート地点です。
そして、もし今すでに通園中で、体調不良やお子さんの状態の変化に振り回されている方がいたら、それはあなたのやり方が悪いわけではありません。
制度そのものが、まだ「想定外」に弱いのだと考えます。ですが、全く無駄ではない。だんだんと築きあげていくものだと思っています。その積み重ねが、今後を作ります。
実際、長く続いた障がい者運動が『医療的ケア児支援法の法整備』を実現させたのですから。
お子さんが保育園に通うことで得た経験が、理想的な保育の未来につながっていくはずです。
分け隔てなくわが子に接してくれる、子どもたちの『寛容さ』。それが私には輝いて見えました。
それは間違いなく宝物と言える時間であり、実施への手助けをして下さった自治体の職員の皆さんや保育所のスタッフの皆様には本当に感謝しています。
皆様の健闘を心から願っています。

次は、そのまま就学相談へと続く道について書く予定です。
参考
国民年金の第3号被保険者制度が廃止ではなく縮小(ニッセイ基礎研究所、2026年6月9日)
ブログ内
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